歴史上の聖天信者


鎌倉新書発行「宗教と現代」1983年7月号より
「聖天信仰の本義と時代背景を求めて」(pdf掲載元 生駒聖天 宝山寺HP)

○寛平年間(西暦9世紀末)右大臣藤原良世の娘だった藤原胤子が河原院の聖天様に帰依 → 宇多天皇の皇后に取り立てられる。

○昌泰四年(西暦901年)右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあい、九州の大宰府に流され、そこで無実の罪を晴らそうと、天拝山で聖天様に祈る → 没後、天満大自在天と化し藤原家に種々の災いをもたらす。道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。

○戦国時代末期、豊臣秀吉が京都伏見の醍醐三宝院に聖天像を寄進して祈願 → 平民から身を起こして天下を牛耳る。

○徳川家康も天海僧正に熱心に聖天様に祈らせる → 徳川三百年の基礎を築く。

○江戸時代、松平定信は東京谷中の越前堀吉吉祥院で、聖天様に改革成功の願文を捧ぐ → 寛政の改革成功

○江戸時代の豪商である紀伊國屋文左衛門、高田屋嘉兵衛なども聖天信者。

○江戸時代の住友家の願文や依頼文が、生駒聖天に二十通程残されている。

関東で関西ほど聖天信仰が盛んにならなかったのは、徳川
家康が、聖天様のご利益を隠すために、聖天は怖い神様
だという風評を流させたからだといわれている。

その他の聖天信者

○建武の新政で有名な後醍醐天皇は、鎌倉幕府の倒幕のために、聖天供と呼ばれる修法を自ら行った。

○江戸時代の観相家、水野南北は大阪福島区の“福島聖天”了徳院の院主に諭され一念発起し、占いの大家として大成。熱心な聖天信者になったと伝えられる。(参考サイト http://www.uretemouranai.com/scinfo.html )

○京都の“山崎聖天”観音寺の境内の駒札によると「霊元、東山、中御門天皇の厚い帰依と商売繁盛・家運隆昌を願う住友家、鴻池家、三井家などの信仰や、京都、堺など商人の参詣を得て大いに発展した」とある。平成7年(1995)の阪神淡路大震災で山崎聖天の燈篭の一部が損傷したが、住友家や住友グループにより補修されている。本堂前には桂昌院(五代将軍綱吉の生母)寄進の梵鐘がある。
(参考サイト http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/kanon-ji-yamazaki.htm )

元禄10年(1697)に当時大坂の豪
商であった住友吉左衛門友信が山
崎聖天に寄進した燈篭。阪神大震災
の際に破損したが、住友家と住友グ
ループの手によって補修された。