新しい信者の信仰の仕方


「聖天信仰の手引き」の中にある(3 新しい信者のための聖天信仰の仕方)という章の内容(P3〜P17)を 要約でご紹介します。

1、聖天信仰の秘訣

聖天信仰の秘訣は、ただ聖天様の偉大なお力を理屈抜きに信じて、そのお力に一心不乱にすがりついていくことである。このことが出来るようになれば、自ずから聖天様の摂取不捨の、偉大な御本誓が感応道交し、大きな願いでも、無理と思われる願いでも、聖天様の御心に通じ、あたかも山彦がこちらの声に応えるかのように御利益が顕れるものである。古い信者達はそのことを体験的事実として知っているが、新しい信者はそのことが分からないので、新しい信者はとにかくおすがりして経験してみることである。

2、理論的に聖天様を知ろうとして、ほんとうの信仰にはいれない人の悩み

新しい信者から受ける質問は、聖天様の実在性とか、聖天様は本当にそういうお力があるのかという、理論的に納得させて欲しいという類の質問が多く、質問に答えてくれないと一生懸命の信仰に入ることが出来ないと訴えるのが常である。しかし、この種の質問は、まだ砂糖をなめたことのない者に、砂糖の味を説明するのと一緒で事実上答えられないもので、理屈を抜きにして、ともかく騙された気でよいから、無条件に聖天様のお力を信じ、それに心からすがりついてみることが肝心である。この種の全ての疑問は、自己の信仰体験から自然に解決されるものである。

3、理論で説明しえないと、すぐ聖天信仰を迷信扱いする人

ところが、世間には以上の道理をいくら説いてもわからない人がはなはだ多く、なめてみなければわからぬ砂糖の味を、理論によって知ろうとする間違いを犯し、気づかないものが少なくない。この傾向は、現代科学を曲解して、科学的なものは何でも説明できるもののように妄断している人達に多い。しかし聖天様に一度もすがってその御利益を受けた体験のないものには、これを体験的に知らしめるよりほかは、知らしめようがないのである。

4、科学の研究と仏教の修行法

今日、科学、特に自然科学の分野が長足の進歩をなしてきたのは、「実験せざる知識は学的知識と認めない」という科学研究上の鉄則を科学者がよく守ってきたからであるが、この点は仏教の修行法とも共通している。お釈迦様は自分の滅後の遺誡として「法を灯明として他を依とすること勿れ。自らを灯明として他を依りとすること勿れ」という有名な説法を残されたが、この中の「自らを灯明として他を依りとすること勿れ」という説明は、どんな説明や説法を聞いても、常にその説明を真に受けないで、必ず自己の生活上で実験して当否を判断してみよ、ということである。この説明こそ今日の学者が、「実験せざる知識は学的知識と認めない」と言っているものと完全に一致しているのである。

5、だまされたつもりで、まず無条件にすがりつくこと

要するに以上述べた自然科学研究上の鉄則から言っても、また仏教修行の根本原理から言っても、聖天様の偉大さやその御利益の広大無辺さは、他人に説明してもらって知るべきことではなく、自得すべきことであり、実際に自分が信じ、疑えない御利益を身に体験するようになれば、他人の誹謗など気にならなくなるものである。

6、聖天様を試すことは冒涜か

世には神を試すことは冒涜だと非難する宗教家がいるが、私から言わせれば、そういう非難は試されて困る神様しか持たぬからだと言いたい。聖天様は衆生を自分にすがりつかせなければ、完全に衆生を救えないと御承知しているので、みなさんが聖天様のお力を試しにくるのを日夜待っておられるのである。ゆえに聖天様を試すということは、聖天様が許されているみなさんの権利である。ともかくも一度信じて、これを自己の生活体験上に実験してごらんなさい。そうして御利益がなかったらそんな無駄な信仰は即座にやめてしまいなさい。しかしもしそこになるほどと思う御利益をみたら、その時はいっさいの疑いを捨てて真心をもって、一身を聖天様におまかせるする、本当の信仰にはいるべきものである。誰の教えであっても、初めからなんの御利益をもたらすかわからないで、信じるような信仰こそ、迷信の極致ではないだろうか。

7、確実な御利益を体験したら、初めて本当の信仰に入れ

私が聖天信仰を説く場合には、救世軍のように「ただ信ぜよ」と言わないで、「とにかく、一度試しでよいから信じてみよ、そうしてその信仰によって確実な御利益を体験したら、そこで初めて本気になって本当の信仰にはいれ」というようにしている。こういって初めて聖天信仰は、自己の体験によって実証された信仰となり、科学的立場からみても、正信の信仰と言い得るに至るのである。

8、試し方の問題

もっともこの場合注意しておかねばならぬことは、「試す」という言葉の意味である。私のいう試すという意味は、科学者の言う実験と同意味であって、聖天教理が聖天様を一心不乱に信じてすがれば、必ずそれに応ずる御利益を授かると説いていたら、その教理の説くごとく、本当に一心不乱に信じ、それにすがりつくようにせねばならない。あやふやな信じ方をして、そのために予期したような御利益が得られなかったとしても、それをもって聖天様の罪に帰せしめるわけにはいかないのである。

9、現世利益を説く聖天様だから、御利益の有無はすぐわかる

こういう意味において聖天様の御利益を実験する場合には、ほかの神仏に比して特に実験しやすいのは、聖天信者の願い求める御利益には、現世利益が中心になっていることである。もちろん聖天様は現世ばかりではなく、命が終わった後でも西方阿弥陀浄土へと案内して下さるありがたい神様だが、死んでからでしか教えの実験的証明が出来ない浄土教理に比べれば、実験台にのせて真偽を判別することはきわめて容易である。

十、他に見ることのできない聖天信仰の根強い力

聖天信者のお詣りというものは実に真剣なもので、他の神社仏閣ではまったく見ることの出来ないものである。それというのも聖天信者の信仰は、理論の遊戯や自己陶酔の産物と違って、たいていがみな切羽詰まった憂き世の苦を聖天様に祈って切り抜け、聖天様の霊験のあらたかさ、その御利益の宏大さを身をもって体験することによって、自然にその信念を高めてきた信仰だからである。

十一、一度得た信仰は容易に捨てない

そのため、聖天信者は一度その信仰を得ると容易にその信仰を捨てることがない。例えば待乳山の御本堂再建の発表がされると、戦災の影響で苦しい人も少なからずいるのに、率先して寄附をしてくる自発的な信仰者が多い。それというのも、それらの人達が聖天様の御利益というものを切実に身をもって体験し、その有り難さを身に浸みて味わっているからである。

十二、理屈抜きで一心不乱にすがりつくことが秘訣

初心のご信者は、できるだけ理屈を言わず、理屈を聞かないようにして、ただ古いご信者を見習って、どうしたら一心不乱になって、聖天様にすがりつくことが出来るようになれるかを、工夫することに努めて下さい。それが出来るようにさえなれば、御利益は目に見えるように現れてくる。そうして御利益を得られてくれば、信じまいとしても自然と信仰は深まってくることは言うまでもない。これが聖天信仰に入る最も自然な道である。